自由

[ Gameについて ]
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ゲームにおける自由について考えてみた。
考えたなどと書くと、非常におこがましく、思いつきで書いてみた程度に留めるのが正しいのだけど、とりあえず考えてみた。
きっかけはゲーム掲示板に書いてあった文章で、「GTAの自由とは移動手段と一般人の殺害だ」というニュアンスの文章を読んだ事だ。

最近増えてきたゲームの中に、3Dの箱庭の中を色々自由に動き回れるという種のそれがある。
GTAもそれに準じたものと言えるだろう。
この手のゲームは、ある場所へ行くという指示や、それによっての行動の制限を付けられることが少なく、ユーザーの任意である程度好きな場所に行ったりすることができる。
その中で、目的を達成する為の障害を排除することも行うし、目的を達成する為に必要の無いものを、排除することもできる。

しかしながら、私はこの種の自由という物に、何の感慨も沸かない。
無目的に、創られた3D空間の中をウロウロしてていても、何の楽しさも無い。
そこで、目的の障害にならない非抵抗なキャラクター(一般人)を殺して遊んでいても、やはり何の楽しさも無いし、それ以前にやらない。
昔発売されたシェンムーという箱庭ゲームの自由度もこの手のものだったが、その自由の中で可能だった行動は、ゲームセンター探しと、ストーカー行為だけだった。
非常に意義のある自由であった事を覚えている。


ゲームにおける自由という言葉に私は違和感を感じている。
制約無く移動が出来て、一般人を殺害及びストーカー行為を行えることが自由なのだろうか。
そして、それを自由と呼ぶ風潮ができてやしないだろうか。
それ以上に、それだけを自由とするような所があるのではないか。

私はゲームにおける自由とは、目的達成する中での選択の自由であると考えている。
前提条件として、ある目的は必ず無ければならない。
その目的を達成するにあたっての、様々な制約は当然あり、その中で、様々な方法を選べることが自由であると思う。

例えば将棋というゲームには、移動の制約もルールの制約もある。
そして、自分の思うままに無意味にコマを動かしていれば当然ゲームには敗北する。
ある程度は目的を達成する為の定石があり、その中でどの方法を取捨選択するか、それはプレイヤーに委ねられる。
それは自由と呼んでよいものではないのか。

スパイクアウトという最近XBOXで発売されたゲームは、殆ど一本道に進みながら、襲い掛かってくる乱暴者をなぎ倒すゲームだけど、その時その時での戦い方は、味方の人数や、敵のタイプによって目まぐるしく変わり、多種多様な選択を迫られる。
それは自由と呼んでよいものではないのか。

一般的に、自由だとされないゲームの中にも、実は非常に豊富な自由を含んでいる場合が多い。
そして、一般的に自由だとされるゲームの中にも、無意味な箱庭を制作するのに労力をかけすぎて、実際の目的に対しての選択枝は乏しい事も多々ある。


ゲームに求めている事は、人それぞれ違い、その中での自由の定義は違う。
私がどうこうと定めることではないので、これ以上の言及はよしておく。

しかし、私はこれだけは、ハッキリと書いておきたい。

無抵抗な人間キャラクターを、無目的に殺害して楽しむ事が、自由なのでは無い。
それは自由という言葉には当て嵌まらない。

無法というのだ。

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